小林正観エピソード③~事件への流れ~
~頼まれごとをひたすら引き受ける~
波乱の幕開け。
うたしショップの方からのお話はこうだった。
「正観さん 体調も少し良くなってね・・・。
でもね、今回 いつも手伝ってくれる皆さんが揃って都合が悪いのよ~!」
そうだろう・・・。内心そう思った。
手伝ってくれなくなった経緯を 私は知っている。
- 2011年11月04日 23:45 /
Comment(4)
コメントありがとうございます
Kazumi
ピーパーさん、いつも ありがとうございます。
「主催者側の横柄な態度」というのには、少し違った側面から
のお話も書くつもりです。全ての人に愛すべきところがあり、
困ったとこもあり(笑)、何をもって横柄な態度とするのか・・・
色々感じてきました。謙虚さの解釈も非常に難しいなと。
そして、私を含め殆どの方が自分が精神世界や悟りというものに
向いているかどうか、わからないようです。踏み込んでみて、
実践してみて それでもまだ、わからなかったりする。
私に質問しに来る方は、ピーパーさんがおっしゃる意味を理解
したくても出来ない、自分を教えに合わせていっているなど
考えも及ばないのです。困惑し ”じゃあ、私はどうすればいい
のか?”となるでしょう。私も質問がくることなど予想も
していませんでした。
そうなると、向き不向きがあることを認識できず
やみくもにすすめた私はどう責任をとるか・・・それで、お互いのため
と一切の相談事を断った時期もあります。聞く場所がなければいい
という[苦笑い]・・・極端でしょ。
あらゆる癒しの方法には、そういう詳しく説明されていない
領域のものが奥深くあることをいつも感じます。
脱落される方を承知で 教えは存在するのでしょう。
そうだとすれば、その中で他人のために どうあがいても
無駄なのかもしれません。私はそれを知るために こういう立場
で学ばされたかもしれません。
いつも お付き合い頂き、感謝です。
- 2011年11月05日 15:30:00
スカイブルー
こんにちは。
わたしもあるかたの精神論を実践し、
最初はとてもうまく行っている気がしました。
でもある日、疲れてしまっている自分に気づきました。
目の前の人を大切にする。
それを一生懸命実践するうちに、自分を大切にすることを忘れたみたいです。
そして、辛いときも弱音をはかないことを頑張ることで
自分の気持ちを無視するようになり、こころが悲鳴を上げていたような気がしました
当時それでも精神論を実施さえすれば幸せになれると思い込んでいたのですが、
本当のわたしは知っていたのでしょうか。本屋に行った時に偶然手に取った本、
本田健さんのユダヤ人大富豪の教えふたたびアメリカ編が
いまの自分の常態の謎を解いてくれました。
人間関係や感情について書いた本でしたが、
わたしは、プラス思考に行きすぎてマイナス感情を感じなくして逃げているだけ。そして行きすぎることで逆に周りの人の気持ちを感じれなくなっていたのだと。
そして友人にも言われました。周りのために頑張ることで自分自身を苦しめ、本来のわたしではいなくなってると。
精神論も、すごくマイナスに陥っているときは助けになるかもしれません。
でもそこを通りすぎ行きすぎることで、バランスが取れず、その歪みが体やこころに出る場合もあるのでは!?と思います。
何を取り入れていくかは、自分との対話から始まるような気がするのです。
すべては自分。なにもしなくても素晴らしい人間ではなくても、そんな自分を愛する。そこからすべて始まる気がするんです。なんて、偉そうに言えるわたしではありませんが[笑い]
- 2011年11月05日 16:35:00
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- 2011年11月05日 22:47:00
ピーパー
正観さんの教えで「不平不満は言えば言うほど体調が悪くなるし、精神も病むし、人間関係も悪くなるから言わない方が得」とか「体の調子が悪いなどのキツイ状況の中で、どれだけ笑顔で平静を保っていられるかが、その人間の価値を決める」と言った感じの教えがありました。このお話を聞いていると、正観さんは自分の教えを守れていません。
やはり病気のせいなのでしょうか…そうであって欲しいのですが…。だとしたら、病気とは恐ろしいものですね…。高橋信次さんの教えを拝借させて頂くと、「不調和な想念は、不調和な霊を引きつけ、憑依され、更に不調和な想念へと引きずり込まれてしまう。そのためにも、人間の側が自分の想念を常に反省し、明るく謙虚で愛に満ちた想念を保たなければならない。増上慢であったり不平不満に満ちた想念だと、その人の守護霊もその人を助ける事が出来ない」というのがありましたが、病気なのに無理をして、不調和な想念を引き出してしまったのは、正観さんの責任ですよね…お釈迦様の教えでも「片寄った無理をした行動(極端な肉体行など)は、心に曇りを作るから良くない」というのがありましたが、この時の正観さんはこれにあたるような気がしました……。
あと「主催者側の大柄な態度」というのに、とても残念さを感じました。正観さんに関わる人でもそんな人がいるんですね…。「偉大な正観さんに関わっている」という、自負心(増上慢)の表れなのでしょうか…精神世界を追求したり、悟りというものを目指している人が、ある意味「とんでもない勘違い」を起こしてしまった証でしょう…。正観さんの教えの中に、何度「謙虚さが大事」と書いてある事でしょうか…。
今改めて思ったのは「謙虚さを保てない人間は精神世界を真に理解しているとは言えないし、また天性の素質として、精神世界や悟りというものに向いていない人」だと思いました。一個前のブログで、KAZUMIさんが正観さんの教えの解釈についていろいろな人から質問される、というものがありましたが、私からすると、あの本の内容は、受け止めた人が自分の内なる心の中で勝手に解釈し消化するものだと思うため、他人に意見を求めている事自体、「自分には教えを消化する力がない」と言っているのと同じだと思うため、そういう人はそういう人の心の世界でこの世を見、生きていけばいいだけの話で、無理して正観さんのお話に自分を合わせたり、背伸びをして自分を変形させる必要などなく、そこで無理して背伸びをしたりして、自分に向いてない事をするから、勘違いを起こして大柄な態度を取ってしまうのではないか―――……そんな事を思いました……。