なんでもない”わたし”を生きるために。
怒りを爆発させていると、それによって引き寄せられた負と感じることが引き寄せられる。それは不幸か、それともカルマか?いいえ、それは、わたしの怒りと哀しみを吸い取ってくれる救いの鎧。救いの鎧を着せられると、わたしは身動きが取れなくなる。頑張れなくなる。
手放すことを躊躇していたものをすんなりと手放せ、それが自分の重みや負担であったことを認識させられ、生活を正され、理解者を引き寄せ、同士を引き寄せ、新しい発想が生まれ、新しい生き方に導かれ、そして、どうにも動かなかった大きな問題の解決策が見えてくる。
救いの鎧は、周りから見れば拷問着のようだろう。しかし、それによってわだかまりが取れなかった者の苦しみが解放され、意地を張るものは脱力し、頼られることを歓びにする者は喜んで仕事を引き継いでくれる。どうにも動かなかった大きな問題の解決に対して、頑なに拒絶していた者たちが、わたしに同情し、それをさせてくれることを可能にする。自分のことはどうでもいいと諦めていたそれらをわたしが動かすことで、わたしは癒され、仕事を減らされ、楽になり、日常的にサポートを受け、今まで役割を持たされなかった者たちに対しわたしもやっと頼り、仕事や役割をお願いできる。
引き寄せられた救いの鎧は、天から与えられた私を守るための重くて暖かい鎧だ。
そうしてわたしはやっと、魂の怒りや哀しみや自分に対する無力感を解放させられる。
その先にあるのは、これまでにない穏やかさと、希望と、真の魂が望む役割である。
あなたも、怒りを表出し、雄叫びをあげますか?
その結果引き寄せられるものを、皆は恐れおののき、自分の感情を閉ざす。
しかし、その結果あなたが引き寄せた負の鎧さえも、あなたの望みであり、あなたの希望かもしれない。
怒りや哀しみ、やってもやっても何かをしていないと言う自分へのダメ出しを出し切る必要がある人もいる。
それを、お勧めするかどうかは、『やめておいた方が良いよ』となるかもしれないけれど、そう言われてもスピリチュアルな道を選ぼうとするあなたであれば、きっと救いの鎧を着こなして、本当の可能性や魂の解放を味わえるかもしれない。
わたしが真に誰かを頼り、本当の意味で守ってくれている神聖なる存在の思いに耳を傾ける時、自分の自覚を戒めてきた結果得た負担によって、わたしは真に誰かを頼り、助けを求め、想いを伝え、感謝することを学べたのだ。
自分で何でも解決できる。解決できないものはそのまま受け入れるというご立派そうな考えに囚われていた過去の自分が今の自分に教えてくれる。
スピリチュアルカウンセラーと言えども、そんなもんです。
学びは等しく与えられ、全ての魂が真の穏やかさを求めて生きてゆく。
あなたがわたしに頼ってもいいよと言ってくれるのなら、あたらしいわたしは、あなたをガンガン頼ります。
あなたは、どうやって生きますか?
いま様々なことが身に降りかかっている方から『これから何かが起きるの?』と不安とも希望ともつかない問いかけをわたしにする人が多いけれど、その答えは、『それは、もう、始まっている』。
スピリチュアルな生き方を求めたわたしたちは、自分はどうやって生きたいのかという難問を解くことを求められてゆく。
簡単な言葉でありながらも、わたしにとってはこれまでの役割以外で自分が何のために生きるのかという答えを出すことに悶絶している。
ようやく出てきた答えは、”わたし”のために生きること。
”わたし”を生きるとはどういうことなのか。
少しずつ答えが見えてきたわたしはこれまで生きた世界を捨てる覚悟が出てきたようだ。
”わたし”について共に考えてみませんか。一緒なら怖くないんだと、わたしは”あなた”に支えられて答えを出し始めています。
和美
- 2016年06月08日 18:59 /
Comment(1)
尤美
引き続き、お供します。一緒に考えさせて下さいねhttp://www.hair-lr.com/kazumi/emoji/116741.gif