2017年のすべてに、ありがとう!!
久しぶりの更新が2017年最後の日となってしまいました。
みなさんは、2017年はどんな一年でしたか?
つい先日、仲良しさんが「(実は)今年はいいことがなにもなかった…」と吐露しました。
そんな彼女が”いいことがない”と感じていたことを、わたしはずっと前から分かっていたのだ(もう何年も前からそうなるだろうということも)。
けれど、それは、彼女がずっと見ようとしなかった現実とか、もっと先の未来とか、自分の性質とか、自分が本当に望んでいるもの、欲しいもの、満たされたいこと、等々をやっと見ようとしているということで、誤魔化せていたものが誤魔化せなくなっているということで、わたしには、その時が来たことがめでたくもあり、そう思い伝えながらも、自分の相変わらずのそういう嫌ーな性質にちょっと反省してみた。けれども、わたしはそうでしかあれず。
彼女が何年もかけてさけてきたその悩みの核心、そのことを考えるきっかけになったのは、その”良くないこと”の連続のおかげ。
わたしはこれまで仲良しさんに、「それはやめたほうがいい」「それは違う見方をしたほうがいい」というニュアンスで伝えたことがあります。けれど、それはいつも数年先の未来のことであって、その当時の彼女にはそれは”その兆しはちっともないもの”であり、”信じたくないもの”であり、わたしに”指摘されたくないもの”なのも良く解っているのです。
仲良しさんになるほど、その反応はわたしの心を刺します。
わたしとはきっと違って、それを知らず、それを気付かないでも、彼女はきちんと正しく生きてゆけるのだろうと。わたしとは、違うのだ。それを知らない方が幸せなのだと。
余計なことを言わない方がいいとわかっていながらも、伝えたことを信じてもらえず、それ以上は言わないでオーラに淋しさはぬぐえず、結果的にわたしは数年先の、そうなる時を待つことを選ぶのです。
その時になったら、フォローする。それが相手に起こる、真の意味を話す。
せっかちなわたしは、こういうことには、5年10年スパンで”待てる”のです。わたしに見えている未来が、仲良しさんに起こらなければいいのに、ともどこかで思いながら。いや、でもその時がもし来たら、「ほら!!言ったじゃないか!!」と自分の出番を喜ぶのだ。
けれど、いざ、そういう時を迎えている仲良しさんを目の前にしても、やっぱり、迷うのです。
いったい、どこまで知っていることを伝えていいんだー!!!
わたしとしては、ほんの少し、彼女にそれが起きている意味とか、彼女の魂の本音とか、相手の気持ちとか、相手の抱えているものを伝えただけなのに、仲良しさんは驚いたり、動揺したり、信じたくない顔をしたり、拒絶する。
それ以上言うなー。皆まで言うなー。もっとオブラートに包んで優しゅうゆーて!と。
むり、むり、むり、無理。わたしには、オブラートにつつんでこの言い方とこの言葉なの。そもそも、何年か前に、ゆーたやろ!そうしない方が良いんだって、何回かゆうたやろ、それはこういうことじゃないんではないかと。
何年か待って、やっぱりその時が来たか、わたしの出番ね!と真実を伝えても、この後味のわるさに自己嫌悪に陥る。
わたしって、やっぱりややこしい。
仲良しさんの今の状況のように、ややこしい!
わたしって、やっぱり、嫌な奴。口が悪い。言い過ぎる。言わない方がいいことを言ってしまう。
でも、そうでしか在れない。
ふつうに生活して、ふつうの友達関係が、なかなかできないわたし。
一人になってそう考えると、あぁ、わたしは、スピリチュアルカウンセラーで良かった、そう心から思う。
忙しすぎると疲れると思うこの仕事だけれど、わたしにスピリチュアルカウンセラーという仕事がある奇跡にあらためて感謝する。この仕事がよっぽど楽なんだと、わかる。
わたしが性格悪いのも、
わたしが色んなことが出来ないのも、
わたしが普通に生きれないのも、
わたしが変な経験ばかりするのも、
わたしの人生がなかなか整わないのも、
わたしが言い過ぎるのも、
わたしが言ってはならないことを言ってしまうのも、
わたしが相手が知りたいことを全て伝えないのも、
わたしがスピリチュアルカウンセラーであることで、すべて報われる。
そんなことを想い、スピリチュアルカウンセラーという仕事をまた完全復帰出来たことに感謝と至福感を得た年末でした。
弱気になってしゅんとしている仲良しさんに、言い過ぎてイラッと嫌な思いさせたかなとか、はっきり言わずイラッともやもやさせたかなとか、そんなこと見通してるんだとか、思って落ち込んだけれど、わたしの数少ない仲良しさんだ、きっと、その言葉を「よっしゃ!」「なにくそ!」と転んでもただは起きぬ仲間として奮起するはずだと。