いま、人生におけるトラブルをどうとらえるか
災害が起きた時、スピリチュアルな活動は無力であります。
自分の霊的な力を感じながらの”祈り”は、何かが違うと感じてすることをためらいます。
起きていることにそぐわない祈りの力と質量に、偽善的で空々しい自分の想いや波動を体感すると、いっそスピリチュアルな仕事から離れるべきであろうかとも思わせる違和感が生じます。
祈りや行いでは浄化されない、もはや力の及ばぬ宇宙の意志を感じる世の中の出来事が、あまりにも多いのです。
わたしたちは、災害や事件事故から何を学び、どう生き直すべきなのでしょうか。
いいえ、もはや生き直す選択さえもないような気がするのです。
今は、起きることを、”享受すべき”、”然るべき”と受け取れと何かが言っているようにも思えるのです。ただ考えもなしに嘆くな、何にも動じることのない自分を創るときだ、そう示されているように。
それには、あまりにも強靭な精神力を要されます。
そのような学びを強く望んだのだと言われれば、強くなる自分の歩みを肯定出来そうですが、「もうそのような学びはいりません」と弱音を吐きそうにもなるでしょう。そのような世界を経験することは、出来ればもう味わわずに免れたいと。
けれども、わたしたちは考えなくてはならないのです。感じ、考えることを止められないのです。
理不尽に犠牲となる命の中で、何故自分は生かされているのか。何度も「生きる価値がない」と苦悩しながらも死に損ねているのか。
今、わたし自身がスピリチュアルな仕事をしている自分に絶望せずに出来ることは、亡くなった方々の弔いとなる魂の浄化のお手伝いです。それが精いっぱいのことです。それが、自分に違和感がなく出来ることです。
亡くなった方々に寄り添い、想いを聴き、その命の終わりをともに慈しむ作業は、遺されたわたしに、無
力ながらもまだ呼吸することを許されるような気持にさせてくれるのです。
遺された方々や被災され被害に遭った方々に寄り添い手助けしてくれる人は、現実をしっかりと生きることの出来る人たちの手によって必ずサポートされるでしょう。そうして、いつか、ご自身で力をよみがえらせ、生きる勇気に包まれるときが必ず来るはずです。
スピリチュアルな力を示しながら、楽天的に光のみで導くような時代はとうに終わっています。
けれども、悲観的に重く捉えるかのように導くことは、まだ受け入れてもらえないでしょう。
今に生かされたわたしたちは、苦悩し、絶望し、疲れ果てる反応が、正常なのではないでしょうか。
この時代に、狂喜し、希望と自信に満ち、元気でい続ける反応が、異常なのではないでしょうか。
もはや、不安やパニックに陥らない方が、厚顔無恥で鈍すぎるのではないでしょうか。
全てが整わず満たされず足りない、そう感じるものたちの不運さ、無知と無能さが、世の中を狂わせているのだろうか?
わたしには、全てに恵まれたものたちの、人への蔑み、優越感、傲慢さ、誇示、それこそが世の中を狂わせているように見えるのです。
そのような、何が善であり悪であるのか、何を目標とすべきか、何が幸せであるかがわかりにくく仕組まれているこの時代を生きるには、やはり、自分というものを少しでも知ってゆかなければならないでしょう。目の前の現実に囚われ過ぎると、それが見えなくなり、救いや自己肯定は見つからなくなるのです。すべての答えは、わたしたち個々の個性と価値観の中に秘められているのです。
あなたにとっての錬金術は、あなたという魂の謎解きから始まります。
誰かの錬金術が、あなたにとっての錬金術になると思ったら大間違いの時代です。
決して、説教の素晴らしい誰かに、騙され吸い込まれてはなりません。彼らの言うことを鵜呑みにしてはなりません。饒舌な彼らはあなたを救うどころか、あなたから自分というものを理解する力を奪ってゆくでしょう。
すでにそこに吸い寄せられ取り込まれたものを救う方法は、それを見ているものが、凛として自分と向き合い続けることです。
わたしも、この惑わされる今を生かされているのであれば、せめてここに来られる方のこころに、魂に、寄り添い、不安や哀しみ、時には怒りや嘆きの感情を少しでも共有させていただき、学ばせていただきたいと想っております。
いつも、ありがとうございます。
椋木和美
- 2018年07月11日 21:41 /
Comment(2)
コメントありがとうございます
Kazumi
わたしもまた、あなたのブログに足を運ぶひとりです。あなたのおっしゃる通り、それは自分の欠片・足跡を探すためなのでしょうか。あなたの生きる強さを求め頼り、あなたからわたしの魂の歴史を感じとることが好きなのです。いつもありがとうございます。
- 2018年07月19日 18:48:05
K
それでもあなたの欠片を求め私のブログを訪れる者も少なくない
どんな想いにあっても、あなたがあなたでいてくれるのなら
それは私には救いでしかないように思う